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反出生主義への反論~存在しないことの優位性についての検討

久しぶりに反出生主義についての話です。
実は、このブログで一番に読まれているのが、反出生主義をテーマにした記事です。
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さて、この記事のコメントの中で、私が主張する「反出生主義とは価値観の一つである」という内容について、それは違うんじゃないかというコメントをいただきました。
私が「反出生主義」を勉強する参考に読んだディヴィット ベネター著「生まれてこないほうが良かったー存在することの害悪」という著書の中でも、価値観と言うよりは真理のように、反出生主義の正当性が述べられています。
 
私個人は、決してその様には思っておりません。
しかしインターネットでざっと検索をかけても、反出生主義への反論としてこれと言った意見を拝見するに至りませんでした。
なので、私はここで、反出生主義は真理ではなく、価値観の一つに過ぎないのではないかと考える理由を述べていきたいと思います。
 
一度考え出すと止まらない私の悪いクセで、とことん考えぬいた結果、1万字に迫るとても長い記事になってしまいました。
お読み頂ける方は、適宜目次などを活用して頂けると幸いです。

 

 


なお、私はこれからベネター氏の唱える考え方に対する異論を述べることになるのですが、それは別に、主義、主張としてなされる「反出生主義」を否定したい訳ではありません。また、反出生主義の考え方の全てに均等に反論するものでもありません。ここで行いたいのは、不存在における苦痛と快楽の非対称性に対しての反論です。

【おさらい】ベネター氏の主張とその根拠

まずは、ベネター氏が反出生主義の立場をとる最大の理由である、苦痛と快楽の非対称性について復習します。
ベネター氏によれば、苦痛と快楽はその不存在において非対称であり、苦痛の不存在にこそ優位性があり、従って存在するよりも存在しないほうが良いことになる、と述べております。

1.苦痛が存在していることは悪い
2.快楽が存在しているのは良い
3.苦痛が存在していないことは良い。それは、たとえその良さを享受している人がいなくとも良いのだ。
4.快楽が存在していないことは、こうした不在がその人にとって剥奪を意味する人がいない場合に限り、悪くない。
  (ベネター 2017 p39)

この様に考える理由として、快楽の不存在が悪いとされるのは快楽の剥奪が起きるからであり、従って剥奪される主体が存在しない場合には快楽の不存在は悪くない、と述べられています。
この点についての反論は、私も試みてみましたが、あまりしっくりとは来ませんでした。
そこで、上記のことをベースにした上で、この「不存在における苦痛と快楽の非対称性」について反論していきたいと思います。

苦痛の不存在についての再考

私は、不存在における苦痛と快楽の対称性を維持することを目的に、上記3の考えを再考しました。
それが以下になります。
 
3.苦痛が存在していないことは、その良さを享受している人が決して存在しない場合に限り、良くはない。
 
なぜこの様に考えたのか。ヒントは、ベネター氏の思考過程にありました。
単純に考えれば、苦痛の不存在は良くて、快楽の不存在は悪い、となるはずです。しかしベネター氏はそうは考えませんでした。ベネター氏は、快楽の不存在がなぜ悪いとされるのか、その点を掘り下げて「快楽の剥奪が起きるからだ」と意味付けを行いました。快楽の剥奪こそが悪いことならば、快楽の剥奪を意味する当事者が不在であれば、快楽の不存在が悪いとなることはない、と言えます。
これと同じことを苦痛の不存在についても行うことはできないか、と考えました。私もベネター氏の様に、苦痛の不存在がなぜ良いとされるのか、その点を掘り下げて新たな意味付けを行えば、不存在の点についても苦痛と快楽の対称性が維持できるのではないか、と思ったのです。
 
私の考えではこうなります。なぜ「苦痛の不存在」が良いのかといえば、それは、我々がこの世に存在することによって常に病気やケガなどの苦痛に見舞われる可能性があるにも関わらず、今現在、その様な苦痛が存在していないからです。言い換えると、この世に存在することによって苦痛が現存する可能性が常にあるにも関わらず、その危険をかいくぐって、不存在という現状に達した、この「苦痛を受ける可能性の非現実化」という状況こそが素晴らしいのであり、価値がある、と評価するのです。
反対に、(過去、現在、未来において)決して存在しない人の場合、苦痛を受ける可能性そのものが存在しないのですから、苦痛が存在しないのは当たり前のことであり、その様な苦痛の不存在には何ら価値はない、と考えます。
 
反出生主義者からはこの様な意味付けをすること自体、否定されるかもしれません。苦痛の不存在に重きを置く立場なら、上記の考えは採用し難いでしょう。
しかし「苦痛の不存在に重きを置く」という時点で、既に一定の価値観が反映されてはいませんでしょうか?両方を平等に考えるほうが、より真理に近いと思うのですが、いかがでしょう。

予想される反論と再反論

 決して存在しない人の苦痛の不存在は良くはない。何故ならば、存在しない人の場合、苦痛を受ける可能性そのものが存在しないから、苦痛が存在しないのは当然のことであり、何らプラスの価値を持たないからである。
 

上記の論法に対しては、反出生主義者から、以下のような反論がなされることが予想されます。
すなわち、反出生主義とは実は、苦痛を受ける可能性の不存在そのものを良いものととらえ、その実現を目指している主義なのだ、と。
確かに、その様な考え方も一つあるかもしれません。苦痛とは苦しく痛いものなのですから、それを受ける可能性だって無くしたほうが良いといえます。さらに、存在しないことによって苦痛を受ける可能性を回避することができるのも事実です。


しかし、この意見に対して私は3つの反論をしたいと思います。


再反論(1)

まず一つ目は、苦痛を受ける可能性の不存在とは、本当に存在しない人だけが享受しているものなのでしょうか。
今よりはるか昔、天然痘という病気がありました。この病気は、人類が最初にして唯一根絶に成功した病気です。天然痘撲滅以前は人類は天然痘という病に犯される可能性と戦ってきました。今は、自然界で天然痘にかかる心配はありません。天然痘という苦痛はこの世から除去されたのです。
これはほんの一例に過ぎません。人類は、この世に存在するあらゆる苦痛への解決策を講じて、一つひとつ、無くしてきたのです。この様に考えれば、苦痛を受ける可能性の不存在とは、「決して存在しない人」が受けられる特権などではないと言えます。逆に言えば、人々を存在させないことによって「苦痛を受ける可能性」を無くそうとすることは、「苦痛を受ける可能性」を回避する方法の一つでしかないとも言えます。産まれることを回避する以外の方法で「苦痛を受ける可能性」を無くせるのならば、何も全ての出産を否定することもないのではないでしょうか。
ここに、「苦痛を受ける可能性」を無くそうとする考え方と、全ての出産を否定すべきとする反出生主義との考え方が、決して論理必然的に結び付いた関係にある訳ではないことがうかがえます。(苦痛を受ける可能性を無くそうと考えることはいいことですが、それを達成する為に反出生主義を採用すべき、とするのが真理だという訳ではないと思われるのです)
 

再反論(2)

もう一つの反論として、「苦痛を受ける可能性」は確かに無くすべきですが、これと対をなす「快楽を享受しうる可能性」が共に無くなってしまうことを良いとするべきか、という点です。
この点、ベネター氏の考えに基づけば「存在しないことによる快楽の不存在は悪くない」のですから、「存在しないことによる快楽を享受しうる可能性」が無いことについても当然に悪くないと考えるかもしれません。しかし、ベネター氏の著書をよく読めば、彼が言っていることが、ありとあらゆるシチュエーションの快楽の不存在が悪くないということであり、快楽を享受しうる可能性の不存在についてまで言及されている訳ではないことが読み取れます。
ベネター氏は「喪失や剥奪によって快楽が存在していないことは悪い」(p50)と述べており、だからこそ快楽の不存在が悪いと言えるのであり、剥奪を意味する人が不存在ならば快楽の不存在は悪くない、と言っています。この点、私の考えを述べさせてもらえば、快楽の不存在が悪くないと言えるのは、例え今、快楽が不存在であっても、自分自身が存在することによって常に快楽を享受しうる可能性が存在している以上、現に今、快楽が現出している必要性がないからです。従って快楽の不存在は存在している我々にとっても悪いことではなく、逆に快楽を享受しうる可能性の不存在こそが悪いことになります。また、ベネター氏によれば、苦痛の不存在とは常に良いものとされていますが、私の見解では、存在しないことによって生じる苦痛の不存在は(上記の理由から)無価値となります。
 

ここで、ベネター氏の著書の中身に触れつつ、更なる考察を試みたいと思います。

ベネター氏は次の4つの説明を根拠に、苦痛と快楽の非対称性を主張していますが、私の上記の考え方をベースに、これに対する反論を試みてみます。これらの反論を根拠に、私はベネター氏の主張が決して真理を述べているのではなく、彼の価値観を語っているに過ぎないのではないかということを示していきたいと思います。
 

①まず1つめは、「苦痛を被る人々を存在させることを避けるのは義務であるが、幸福な人々を存在させる義務はない」(p41)という主張です。
確かに苦痛を被る人々を存在させることは避けるべきだとは私も思います。しかしそれは、私の考えによれば、存在することによっても苦痛を被ることを避けるのは可能であり、人々を存在させないとすべき論拠にはなり得ない、となります。また、幸福な人々を存在させる義務はないのもその通りですが、それは快楽の実現が義務でないだけであって、快楽を享受しうる可能性の必要性までをも否定することにはならないと考えます。
 

②2つめは、「子供を持つ理由として、ある人がその子供のためにその子供を持てると言うのは奇妙であるが、子供を持たない理由として、その子供の利害を引き合いに出すのはおかしくない」(p43)です。子供の為に子供を持つと言うのであれば、この世に産まれてくる可能性がありうる命の全てを産み落とさなければならないのではないか、とベネター氏は述べています。
しかし普通に考えてそんなはずはないでしょう。子供の為に子供を持つ(又は産む)と人々が言うとき、そこでは大抵、産んだ後のことも考えるのではないでしょうか。すなわち、人々が子供を持つかどうかを考える際、同時に、その子供を成人になるまできちんと育てられるか否かも併せて考えているのではないでしょうか。あるいは考えるよりも先に覚悟だけ決めて産み落とす場合もあるかもしれません。どちらも子供を育てあげるところまで予定して子供を産んでいることになります。この様に「子供のために子供を持てる」とは、ただ単に「存在させる」ことだけではなく、「人並みに育てあげる」ということも含意されていると解釈すれば、その人数にはおのずと限界があるのは当然ではないでしょうか。
ところで、この様に解釈すると「快楽を享受しうる」客体の数にも限界があることになり、「快楽を享受しうる可能性」の存在を重視する私の主張と矛盾するのではないか、と指摘されるかもしれません。でもそれは問題ありません。確かに客体の数は多いに越したことはないのですが、数の増加を目的に出産数の限界をなくすことで「人並みに育てられない子供=大人になれない子供」が増えると、それは結局「快楽を享受しうる」客体が減ってしまうことになり、良くないこととなってしまうからです。結局は、育てられる人数だけ産めば良いということなのです。
また、私の主張は「快楽を享受しうる」客体の存在を絶やさないことを重要視するのでありまして、客体の増加に重きをおいておりません。一度産まれた命はなるべく長くこの世に留まっていただき、その間に沢山の快楽を体験して頂きたいと望んでおります。
 

③3つめは、(少し引用がしにくいのでこちらで要約させてもらうと)我々は、産まれてきた子供が不幸な人生を送っていればそれを悲しむが、一方で存在しない子供の幸せが不存在なことを悲しむことはないのであり、それは苦痛が存在しているのは悪いことだが、快楽が存在していないことは悪いことではないからだ、という主張です(p43~44)。ここで、存在しない子供の不存在とは、例えば結婚しているけれども子供はいないという夫婦の子供、という存在を想定するのが良いと思います。
これに対する反論を考える前提として、ベネター氏がこの主張で述べていることが「悲しむか、悲しまないか」という感情論の話をしていることに着目します。そして感情論に訴えかける場合、基本的にどう感じるかは個人の自由だということを指摘しておきたいと思います。
ただ、いきなりやみくもに「個人の自由だから、ベネター氏個人が好き勝手に言っているだけだ」と主張するのも誤りだと思います。例え個人の自由に属することでも、統計を取れば圧倒的多数派に属するであろうことならそれを真理とする理論は、決して誤りではないと思うからです。そしてベネター氏は、この自分の意見こそが正に圧倒的支持を得られるであろう多数派の意見である、と述べているのでしょう。
しかし果たしてそうでしょうか。多数派か否かは統計を取らない限り確かなことは言えませんが、ここで私の意見も述べさせていただきます。まず前半部分(産まれてきた子供が不幸な人生を送っていればそれを悲しむが、一方で存在しない子供の幸せが不存在なことを悲しむことはない)は恐らく圧倒的多数派によって支持されるのではと思います。ただ、後半部分(それは苦痛が存在しているのは悪いことだが、快楽が存在していないことは悪いことではないからだ)については、全くの反論なしに大衆に受け入れられるものか、疑問に感じます。ここに別の理論を主張できれば、ベネター氏の主張の絶対性を否定できるのではないでしょうか。
私の考えではこうなります。産まれてきた子供が不幸な人生を送っているという状況は、「苦痛を受ける可能性」が現実化している状況であり、だから悲しむべきことだといえます。一方で存在しない人の快楽が存在しないことは、「快楽を享受しうる可能性」が不存在である以上、本当は良くはないのですが、この人は「快楽を享受しうる可能性」と同時に「苦痛を受ける可能性」の不存在をも享受しています。だからプラスマイナスゼロであり、我々は悲しまない(というより、何も感じない)のです。もし彼らに対して何かしらの感情を持つべきだと言うのであれば、それは悲しみと喜びが同時に存在する、とても奇妙なものにならざるを得ないだろうと予想されます。
以上のような説明で、「産まれてきた子供が不幸な人生を送っていればそれを悲しむが、一方で存在しない子供の幸せが不存在なことを悲しむことはない」理由を説明することもできるのではないでしょうか。私が主張する理由に基づけば、「決して存在しない人」の快楽の不存在が悪くない訳ではなく、同時に快楽を享受しうる可能性の不存在が悪くないとも言えないことになるかと思います。
後は(この2つを含む)どの様な意見に、大衆が賛同してくれるか、という話になるのではないでしょうか。
 

④4つめは、ポイントだけ引用すると「私たちは存在してしまうことがあり得た人の苦痛を残念に思うが、その人々の快楽が存在しないことを残念に思いはしない」(p45)という主張です。
これに対する反論として、まずはベネター氏の著書にあらかじめ予想されていた反論を述べたいと思います。我々は普段、存在していない人の快楽の不存在を残念に思いはしないのと同時に、同じ人の苦痛の不存在を喜んだりはしない。もし仮に快楽の不存在を残念に思わなければならないなら、同時に苦痛の不存在をも大喜びしなければならないだろう。これに対してベネター氏は、以下のように主張します。すなわち、喜ぶことと残念に思うことは対照的ではない。ベネター氏によれば、「喜び」の逆は「憂鬱」であり、「残念に思う」ことの逆は「歓迎される」なのだそうです。そして快楽の不存在と対をなす苦痛の不存在とは、残念に思うことの逆である、歓迎されることと考えるべきである、と言うのです。
これに反論するならば、まずはこのような対照関係であると考えられるのはなぜなのか。なぜ、残念に思うことの反対を喜びと捉えてはいけないのか、その理由をベネター氏は述べておりません。別にベネター氏の言うように考えることがいけない訳ではありませんが、そのように考える論理必然性だって存在しないのではないでしょうか。次に、百歩譲ってベネター氏の述べる対照関係が真実だとします。その前提で我々が言いたいことを訳するならば、それは「存在していない人の快楽の不存在を残念に思いはしないのと同時に、存在しない人々の苦痛の不存在を歓迎しない」となります。なぜならば、存在しない人は、現に存在している私たちとは違って、苦痛に見舞われる可能性そのものが存在しないのですから、苦痛が不存在なのは当たり前であって、歓迎するべき理由がない、ということになります。この様に考えるのが理論上可能であれば、ベネター氏の述べる見解が真理だとは決して言えないと思われるのです。
また、違う視点からの反論として、「存在しない人々の快楽が存在しないことを我々が残念に思わない」という点についても言及させて頂きます。確かに、快楽の実現が義務でない以上、快楽の不存在を残念に思わないのは自然なことだと思います。しかしこのことは「快楽を享受しうる可能性」の要否について何も触れてはいません。もし仮に、この主張が「人類が滅亡することによって快楽を享受しうる可能性が永遠に存在しなくなることも含めて、残念に思いはしない」と言うものだとしたら、それはさすがに賛同を得られないのではないでしょうか。こう考えると「快楽を享受しうる可能性」がすっかりなくなってしまうことこそ残念に思うべきことなのではなかろうかと、私は思うのです。
 

再反論(3)

最後の反論として、スポーツの例えが使えると思われます。すなわち、ありとあらゆる苦痛の不存在が良い訳ではないのです。世の中には、快楽と同時に存在する苦痛というものがあり、この種類の苦痛とは無いよりもあったほうがいい(あるいは、存在していても悪くない)ものだと考えられます。
これはスポーツで例えると分かりやすいかと思います。一例として、マラソンランナーを考えてみます。彼らがひとたび走り出せば、息はあがるし体は疲れます。転んでケガをするかもしれません。これらは苦痛と呼べます。しかし一方で、体を動かす心地よさや風を切って走る爽快感、記録を更新できた際の喜びなど、快楽と呼べるものも同時に得ています。このように快楽と不可分で訪れる苦痛についてまで否定してしまうと、スポーツそのものをやることを否定してしまうことになります。マラソンを始めようとしている人に向かって「そんな筋肉痛になったりケガするかもしれないことをしてはいけないよ」等と言って遮ろうとすることは、さすがに余計なお世話ではないでしょうか。
これはスポーツに限った話ではありません。快楽を得る為にその前提として苦痛を甘んじて受け入れる場面とは、人生において多々存在するものです。苦痛を受ける可能性の不存在が本当に良いことならば、この世に存在するありとあらゆる「苦痛と同時に存在する快楽を得る為の行為(スポーツなど)」は、その存在自体が悪いということになりかねません。そんな思想が真理を言っているとは、私にはとても思えないのです。苦痛を受ける可能性の不存在を、全部まとめて同じ「良い」という評価でくくって、だから子供を作ることは良くないことだと言い切ってしまうこともまた同じです。
この世には、存在する必要のない苦痛と、存在して良い苦痛(あるいは存在することが悪くない苦痛)の二つがあり、「苦痛を受ける可能性」の全てを否定してしまうと、両方の苦痛についてその発生可能性が否定される為、結論として受け入れられないものになる、と私は思います。
この様な考え方も、大いにあり得るのではないでしょうか。

まとめ

以上の理由により、「決して存在しないことにより生じる苦痛の不存在」を無価値と考えることも可能だといえます。
また「苦痛の存在」について、存在することが悪くない苦痛もあるという考えもあり得ることから、存在にこそ優位性があるという考え方もできると思われます。
そして上述の私の意見や反出生主義の考えも共に、ある程度の価値観に基づいた評価の結果でしかないといえます。要は、どう考えるかは好みの問題ではないか、ということです。


反出生主義とは、決して事実に基づいた論理必然的な答えなどではないのだと、私は思います。


しかし、これで反出生主義の主張ないしベネター氏の考え全てに反論できた訳ではありません。
ベネター氏はその著書の3章の冒頭の段落で、この様に述べています。

「自分たちの人生がどれほど悪いのかを正確に理解すれば、自分が存在するようになったのは害悪なのだと受け入れられるだろう。」

(ベネター 2017 p71)


おそらく、ベネター氏は存在している人間にとっての「苦痛の不存在」とは、そのほとんどがポリアンナ効果によって得た幻のようなものであり、正しく認識さえすれば様々な苦痛が現出するのだと考えている様です。いくら苦痛の不存在が良いものだと捉えても、実はそのほとんどを私たちが享受してないのだとしたら、結局私たちに良いことは起きていないともいえます。
ブログにコメントをくださった方にも、似たような指摘をして下さった方がいらっしゃいました。仏教における「一切皆苦」の「苦」とは、巷で言われている様な「煩悩」のことではないのだと、その方は指摘していらっしゃいました。この場合の「苦」を、ポリアンナ効果を取り払った上での「苦痛」と同視するなら、この世は私たちが思っている以上に苦痛に見舞われた世界だということになります。


ポリアンナ効果という一種のバイアスを外して考えるべきとする見解に対しては、あまりにも悲観的に過ぎる気がして私にはなかなか受け入れ難い指摘ではありますが、このような視点もあるのだということは一言、申し添えておきます。

既出の可能性あり

ちなみに、これまで私が考えてきた「苦痛の不存在は良くない場合がある」や「苦痛の存在は悪くない場合がある」といった主張は、全部私がイチから考えたものです。
私の様な素人がウンウン言いながらも思い付く内容ですから、専門家の間では、既に議論済みの可能性があります。
そこでベネター氏からの反論も既に成されているかもしれません。
 
ただ、サクッと検索をかけただけではすぐに見つからなかったものですから、私も記事にさせて頂きました。
もしご存知の方がいらっしゃれば、教えて頂けると幸いです。

最後に

いかがでしたでしょうか。
この記事によって、存在しないことに優位性があるという主張を否定する理屈の提示はできたのではないかと思います。


繰り返しますが、私がここで申し上げたかったことは、反出生主義の考え方が真理に基づいた主張である、という考え方は違うのではないか、ということです。
私は、反出生主義とはそれぞれの異なる価値観に基づいて支持されている主義、主張の一つだと考えております。
私は反出生主義の考えを採用したいとは思いませんが、決して反出生主義そのものを否定したい訳でもありません。
反出生主義の考え方に触れて、救われた人もいるはずです。
自分の価値観に基づいて、自分の好きな様に生きていくことが個人の幸せに繋がるのだと思っております。
 
長くなりましたが、今回はここまでにしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。