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反出生主義への反論②~同意の有無について

どうも皆さま。

初めましての方は初めまして。

既知の方には、いつもご来訪ありがとうございます。

寺嫁主婦のごまです。

 

さてさて。またしても反出生主義の話です。

 

コメントのほうで頂いた指摘の中に、出産において産まれてくる本人の同意が取れないことは倫理的に問題があるのではないか、という内容のものがありました。

反出生主義の中で「出産は同意なく子供に苦痛を与える行為である」とされる理由です。

 

しかしこの点についてはネット内でも熱心に議論されていたのを見かけたことがありまして、もう私なぞが何かを言う必要もないのかな?とも思っていたのですが

せっかくコメントを頂けたので、私なりの考えを改めてまとめて記事にしようと思い立ったのでした。

 

結論と理由

まず、いきなりですが私の考える結論を申し上げますと、「人を誕生させる時に同意は必要ない」です。

いきなり正面きって否定形の文になってしまいましたが、そう考える理由を以下で述べさせていただきます。

理由(1) 前提が当てはまらない

そもそも、なぜ苦痛を与える行為に同意が必要と考えられているのでしょうか?

この世に存在することがすべからく苦痛を受ける「悪い」ものであるならば、同意など問題とせず出産は悪いこと、で良いはずです。

しかし一方で、同意の有無を問題視する視点も存在します。

それではどうして「同意のないことに倫理的な問題がある」と言えるのでしょうか。
 
それは「一般的に、当事者に不便を強いる場合には、あらかじめその者からの承諾を取っておくべき」だという考えに基づいていると思われます。そのベースには、自由意思に基づく自己決定権を尊重するという考え方があります。
 
ところが、未だ存在しない者の場合、そもそも「意思」を持った主体ではありません。それゆえ「了解」や「決める」などの様な形成された意思そのものが存在しないのです。また彼らは、この世に未だ存在していない以上、権利の帰属主体たる地位も存在しないので、自己決定権などの権利も認められません。従って「自由意思に基づく自己決定権の尊重」という考え方の基本それ自体が当てはまらないのです。
彼ら存在しない者たちは、彼らの意思が不存在であるがゆえ、(それが自分自身のことであるにも関わらず)産まれるか否かについて決めることができないのです。決定権それ自体が存在しないのですから、同意の有無など問題にすらなり得ません。要は、適当ではない対象に適当ではない法理を当てはめている様なものです。「自由意思に基づく自己決定権の尊重」は大切なことですが、意思を持たない者にもこの考え方を当てはめたがゆえ、反出生主義者が述べる様な問題が生じているのです。それは適用対象を誤ったがゆえに生じた問題です。
従って、出産において産まれてくる存在からの同意は必要ありません。出産の決定権は主体を生み出そうとする立場の者(すなわち、親)に属していると言えます。これは誕生する主体の意思を無視しているのではなく、主体の意思そのものが不存在であるが故の結論です。これが第一点です。
 

 理由(2) 反出生主義では解決にならない

次に第二点ですが、仮に、存在する(誕生する)前の存在にも意思があると仮定します。その場合、当該存在について、大きく2つのグループに分けられると思われます。
それは「産まれてきたくないグループ」と「産まれてきたいグループ」です。
この場合、子供を望む親が「産まれてきたくないグループ」を産んでしまうことは、自己決定権を侵害していると言えます。なるほど、確かにこのように考えれば倫理的な問題がないとは言えません。
しかし反対に、反出生主義者がただの1人も子供を作らないことは「産まれてきたいグループ」の自己決定権を侵害しています。これも倫理的な問題を抱えているといえるでしょう。つまり「産むも問題、産まないも問題」ということになります。
結局、産まれてくる前の存在に意思や自己決定権などを認めても、それを確認しようがない現状では、彼らの意思を尊重することなどできないのです。それは出生主義、反出生主義のいずれの立場をとろうが変わりありません。出生主義だけが倫理的に問題ありということも出来ないのです。
 
 
なおこの点について、「産まれてきたいグループ」の自己決定権は、産まれてきても「苦痛に見舞われることが確実である」という点から、「あなたの為に」というパターナリズム(自己決定権を凌駕する制約)によって否定できる、と考える人もいるかもしれません。
しかしもしこの様な考え方を認めるのならば、反対に「産まれることは快楽を享受する地位の獲得である」と言って産まれてきたくない意思をパターナリズムで否定する方法も可能となります。それは、何を「あなたの為」と考えるかの違いであって、要は価値観の違いであり、何をメリット、デメリットと考えるかの違いなのです。
パターナリズムによる制約が認められるのならば、誕生前の命の意思に反する決断も倫理的な問題はないことになります。これが第二点です。
 

存在するから苦しむのか

同意の有無という点からは逸れてしまうのですが、コメントに頂いた「(誕生は)苦痛から逃れられないことが保証されている」という指摘に対しても、少しコメントさせて頂きます。
私はこれは、半分正しくて半分間違っていると思うのです。
確かに、この世に存在することによって必ず「死ぬ」という未来が決定付けられます。そして死とは、どれほど苦しいものか、誰もよくわかっていない。それはただ私たちが知らないだけで、実は計り知れないくらい苦しく辛いものなのかもしれません。
また誕生の際にしても、陣痛の痛みとは母体だけでなく、胎児も体験しているのだそうです。自然分娩などでは特にそうです。
しかし一方で、誕生の際の痛みや死ぬこと以外の苦痛とは、決して、存在するから味わうのではないと思うのです。
なぜなら、「誕生」や「死ぬ」以外の苦痛は、存在することとはまた別の理由が必ず存在し、かつ「死ぬこと」とは異なり回避したり苦痛を減少させることが可能だからです。
「死」の場合、事故、事件、天災、病気などいずれの原因によろうが、一生の終わりが「死」であることは覆せない事実です。
一方で、生きている間に経験する苦痛とは、(存在するからという理由とは別に)それら苦痛を発生させている個々の原因がそれぞれあり、それら発生原因を探究、研究、分析してかつ対策をとることで、苦痛を減少ないし回避させることができるのです。これは「死」が回避不可能なのとは異なり、いくらでも対処可能です。
この様に考えるならば、この世の苦痛を受けるのは「存在するから」ではなく、個々の苦痛の発生原因によるものだと言えます。従って生きているうちに経験する苦痛について、「存在するから苦痛を体験する」という風に言ってしまうのは、本質的な発生原因が別にあるにも関わらず無理に関連づけているという点において、論理の飛躍があると思われます。コメ主の方や反出生主義者の方がが仰る「逃れられないことが保証されている」苦痛とは、誕生の際に受ける苦痛と、生存と表裏一体である「死」の苦痛それだけだと思うのです。
(後は、やっぱり苦痛を与えているということに重きを置くか、それより生まれて人生を謳歌させたい、と思うかの価値判断で決めれば良いと思うのです)

終りに

いかがでしたでしょうか。

誕生において生まれる側は、当事者であるにも関わらず、生まれる、生まれないの選択肢はありません。

これはどれだけ理不尽に感じようとも、厳に存在している事実です。決定権は親にあります。

そうであるならば、生まれてくる本人の同意が無いことは当然の結論であり、特に問題になる点でもない、ということになろうかと思います。

 

それでは、今回はこれで失礼します。

最後までお読みいただきありがとうございました。