寺嫁主婦のよもやまブログ

元司法試験受験生だったアラサー主婦がよもやま話をするブログ

人を産むことの意味~反出生主義に触れて

前回のブログでは反出生主義と仏教の比較検討を行いました。

反出生主義と仏教 - 寺嫁主婦のよもやまブログ

今回は、純粋に私が反出生主義にふれて思ったことを述べさせていただきます。

一応、2児の母でもあるのでその辺の立場からの意見にはなるかと思いますが、是非ご一読くださいませ。

 

 

反出生主義への素朴な疑問

私は自分が子供を作るタイミングでは、特にこれといった理由を明確には持っていませんでした。

ただただ、「自分が子供が欲しい」という理由と、世間一般に考えられている様な「結婚したら子供を作る」という考えを自然に受け入れていただけです。結婚した夫婦が子供を望めば、当然に子供を持つことは認められると思っていました。

反出生主義を知った時は、この前提が大きく崩された気がして大変な衝撃を受けました。

そして素朴な疑問を持ちました。確かに生まれれば必ずといって良いほど苦しみには見舞われることになるけれども、生まれなければ幸せにもなれないのではないか。この点について反出生主義者はどう考えているのだろうか。

 

「存在することが害悪」とは?

そこで私は、反出生主義者がどのように考えているのか知ろうと思い、デイヴィッド・ベネター著「生まれてこないほうが良かった」を購読しました。

この本の副題は「存在してしまうことの害悪」となっており、読み進めていくと至るところに「存在することは害悪である」旨の記載があります。

つまり生まれていることは何一つとして良いことはない、と言うのですが、何故そう述べるのかといえば、存在することよりも非存在のほうがより良いからだと述べます。

 

ベネター氏の著書を読んだ人にとってはよくご存知の図式ですが、彼はその中で以下の内容を記しています。

  1. 苦痛が存在していることは悪い
  2. 快楽が存在しているのは良い
  3. 苦痛が存在していないことは良い。それは、たとえその良さを享受している人がいなくとも良いのだ。
  4. 快楽が存在していないことは、こうした不在がその人にとって剥奪を意味する人がいない場合に限り、悪くない。
  (ベネター 2017 p39)

彼はこれを、快楽と苦痛の非対称性と言います。

そして彼の主張では一貫してこの非対称性が貫かれています。つまり、苦痛の不存在>快楽の不存在です。

私は苦痛の不存在と快楽の不存在を同程度の事象と捉えていますが、ベネター氏はそこに優劣をつけます。存在においては苦痛と快楽は同程度である一方、不在の場合においては、快楽の不存在よりも苦痛の不存在のほうが優れているのだから、存在するよりも不存在のほうが良いのだ、という理解ですね。

 

少々読みにくくはありますが、ベネター氏の著書を読んでいくとその気持ちのこもり具合に圧倒されます。様々な解説や具体例を提示しながら、この非対称性の正当性をグイグイと説明していきます。な、なんだかそんな様な気になってきたゾ…?

 

事実と評価の峻別

ベネター氏の著書を読みながらその考え方に魅せられつつ、やっぱり私にはどうしても引っかかるところがありました。

それはベネター氏の考えがどうしても「苦痛と快楽の非対称性」をベースにしなければ成り立たない、というところです。

そもそも私の様に、苦痛がないことと快楽がないことは同程度の事象だと認識していると、ベネター氏の述べる考えの一つ一つに引っ掛かりを覚えます。確かに非対称性を前提にするならば、この著書で言われていることはとても理にかなっていると思います。しかし、ひとたび非対称性を疑ってかかると、その内容の真実性にあちこち疑問がわいてきてしまうのです。

 

そんな時、私は司法試験受験生時代によくされたある苦言を思い出しました。起案を提出して返却されると、決まって「事実と評価を分けて書きなさい」と指摘されるのです。

『事実とは、誰が見ても客観的に明らかなことのみを指すのであり、あなたの答案は自分が下した評価をあたかも事実のように書いているところがあります』『事実と評価をしっかり分けて認識する必要があります』などと、よく怒られました。

 

ふと思ったのです。

私は、ベネター氏の主張する苦痛と快楽の非対称性という考え方を、客観的に真実の「事実」として認識してはいないか?

これはもしかして、現実社会を見てベネター氏が下した「評価」なのではないか?

私は、またしてもやらかしていた様です。

 

客観的に存在する事実とは

そこで改めて、人が生まれるということについて、冷静になって考え、分析することにしました。

結論的には、ほぼニヒリズムの考え方にたどり着いたといった感じです。

『辛いことも楽しいことも、今この世に生きている人間にしか味わえない』

これが全てであり、人の誕生など客観的にいえばこれ以上でもこれ以下でもあり得ません。

ここで止まれば、ニヒリストということになります。 

そして、この事実に対して評価を加えると、そこから様々な考え方にたどり着くのだと思います。

マイナスの評価をした反出生主義

結局のところ、反出生主義というのは生命の誕生におけるマイナスの面に着目し、出生を否定する「考え方」の1つに過ぎなかったのです。反出生主義者の語る「生まれたら必ず苦痛を味わう」というのは、生まれることのマイナスの側面しか述べておりませんし、「子供を産むことは辛く苦しい人生を子供に押し付けている」というのも、誕生のマイナスの側面を評価して出した「価値判断」の1つでしかありません。

「主義」という名前からもお分かりの通り、反出生主義は絶対的な正解という訳ではなく、そうある「べき論」の1つなのです。 

 

ちなみに、ベネター氏が述べている「苦痛と快楽の非対称性」については、様々な学者から反対の理屈が提唱され、両者の対称性を維持する理論も存在します。これに対するベネター氏の反論が、正に上記の私の見解と同じようにうかがえます。

 

現在子育てに追われている家庭ですとか、出生に前向きな考え方をお持ちの方にとって、反出生主義とは耳障りな意見かもしれません。私も最初は強くそう思いました。

しかし多様性により社会の発展を目指す民主主義の世の中において、他では絶対に聞けないような意見に触れられるというのは、とても貴重な経験になると私は思います。

 

プラスの評価もあり得る

誕生にマイナスの側面がある一方、プラスの側面ももちろんあります。

これに着目して「子供を生むことはいいことだ」あるいは「子供は生まれるべきだ」と考えることも可能です。

その内容は、1人ひとり違うかもしれません。

以下では私自身が私なりに考え出した「子供を産む理由」をご紹介します。

 

私は、人が生まれるということは「幸せを体験しうる地位」を獲得することだと思っています。

幸せを体験することは、今現に生きている人間にしかできないことだと思うからです。

そしてこの地位は、他の何にも代えがたい、とても貴重なものだと私は考えます。

確かにこの地位を獲得すると、ほぼ確実に苦しい思いもすることになると思います。しかもこの地位から離脱する為には、絶対不可避の「死」という苦痛を体験しなければなりません。加えて、この地位を獲得したからといって、必ずしも幸せを体験することが約束される訳でもありません。

しかし、この地位の獲得なくして幸せを体験することはあり得ません。ならばまずはこの「幸せを体験しうる地位」を入手できたことそれ自体が、素晴らしく良いことだと思うのです。この地位からの離脱は「死」という形でむかえますが、この死に苦痛が伴うのは、それだけこの地位が素晴らしいものだからではないでしょうか。

そしてこの「地位の獲得(良いこと)」&「確実に苦痛がある(悪いこと)」の両方が存在していることで、スタートラインはプラスマイナスゼロ、更にそこに幸福を感じたことで上乗せ分のプラスが存在し、結果的に上乗せされたプラス分、人生は良いものになると考えることもできると思うのです。

 

このような地位を誰かに授ける「出産」という行為は、やはり素晴らしいものであり、新たな命の誕生は(幸せを体験しうる地位を新たに獲得した、という意味で)祝福されるべきものだと私は思います。

 

終わりに

最後に、なぜこんなにも私が熱心に反出生主義について考察したか、ということについて述べさせていただきます。

それは正に、今の私たちが反出生主義の考えに影響され得る立場にいるからです。

私たち夫婦は、3人目の子供を作るか検討中です。もし反出生主義の方がこの場にいれば、絶対に止めろということでしょう。

彼らの1人ひとりに対して説得することは不可能でしょう。しかし、私自身、反出生主義という考え方に触れて、自分の中でこの主義に対する答えを持っていなければならない、と思ったのです。

そして、今後子供を持ちたいと考えている人々にも、このような主義が存在すること、自分なりの理由を持つ必要があること、そして若輩ながら私がどのように考えているかを知ってもらいたかったのです。

 

人が生まれるのは良いことだと、私は思いますよ!

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。